stand by me ドラえもんの感想文
えー、まだ見てません。
見る前に感想を書いてみよーうのコーナー!
ドラえもんはもちろん知っています。
でも、前にくっついているstand by meってどうゆう意味なんでしょうか??
一番最初に思い浮かぶのが1986年公開のアメリカ映画です。
でも、どうなんでしょうか?
そっちよりも普通の直訳としての「そばに立っていて」の方が正しい気がする。
ドラえもんとのび太との関係性を考えると直訳の方が近いのかなと思う。
うんうん、納得。
さあ、じゃあ、TSUTAYAに行こうか・・・・・
と、その前に、そもそも論。
そもそも、ドラえもんって何?
いやいや、知ってるよ、ドラえもん知ってるよ。
一般史としてのドラえもんは知ってますよ。
でも、僕にとってのドラえもんをキチンと定義しておかないと
satand by meドラえもんを見る資格を得る事が出来ないのではないか?
あれほどのヒット作を見るためにはやはり心の正座をせねばならんでしょう!
ドラえもんって3つありますよね。
・初期 さよならドラえもん まで
・中期~終わり無き後期
・劇場版
この3分割には大体の人が納得できるんじゃないでしょうかね。
僕としては、中期以降のドラえもんってあまり興味が無いので、語る事がないです。
まあ、終なき日常物作品のロールモデル的な意味では、意義の大きな作品郡ではあると思います。
次に、劇場版については、中期以降の無目的化した日常物作品と並立した、
目標地点の設定された物語としてのドラえもん物語として、とても重要な作品郡と
言って良いと思います。特に、登場人物達の成長物語を描く事で、ある種、空洞化しかねない中期以降のドラえもんへの意味づけに大いに役立つ物だったと思います。
登場人物たちへのリアリティ、実在感を出させるために『劇場版』はとても大儀であったと思います。
さて、ここまでは前置きです。
では、初期ドラえもんのお話をします。
ドラえもんとは何か?
それはETです(1982年公開のアメリカのSF映画)
ちなみにドラえもんは1969年から連載開始です。
ドラえもんはETのパクリ作品だったんですね。因果律を超えてパクルなんてなんてけしからん!まったくわけが分らないよ。
藤子不二夫Fは魔法少女だったのだ!『完』
さて、無し無し、上の無し。
ETとは何か、ある側面としては、異種間交流物とも見えますが、別の側面として捉えてみたいと思います。
「友達もおらず、特技も無い少年が、世界でたった一人、心を通わせられる親友と出会い、そして、別れる物語」
それがETです。
ね?ドラえもんとかなり似ているでしょ。
そもそも、初期のび太って親からも期待されず、同級生からも相手にされず、それを自分でも理解している鬱屈とした少年です。
誤解を恐れずに言うなら
「周りを凡人どもと心の中で見下しながらも、その中でさえ最下層の自分に絶望を抱える、精神性だけが異常に高い、屈折した少年」
と言っても良いぐらいです。
いや、こんな少年結構いますよ。
自分の精神性と外界との乖離を上手に折り合いをつけられない苦しみこそ、のび太の持つ一番大きな問題なんですよ。
で、そんなのび太の元にやって来たロボット。
その非現実的で非人間的な存在にしか自分の心情を吐露出来ない少年とロボットは
どんどん自分達2人の世界に閉じこもって(ひみつ道具の共有によって)いきます。
しかし、突然終わりを向かえる二人の関係。
でも、「かつて親友がいた記憶」がこれからの、のび太を支えていってくれる予感を
与えてくれる最期。
それが初期ドラえもんの物語です。
以上。
・スピンオフ
ここが変だよ?ドラえもん。
ドラえもんてすごく変な作品じゃないですか~。
だって、ひみつ道具がのび太の私生活の質の向上に全然貢献してないじゃないですか。
本来なら、のび太は何か失敗するたびにタイムマシンに乗ってやり直すべきだし、
移動は全てどこでもドアを使うべきだし、
毎日暗記パンを食べ続けるべきだし、
食事は毎回”グルメテーブルかけ”で作るべきなのに。
全然そういった事をしていないわけです。
え?それはシチュエーションSFコメディだから?
いや、そうではないのです。
ひみつ道具とは、のび太の心の成長をさせるためだけに登場する道具なんです。
あれは、のび太に提示された「未来への希望」であり、「絶望ばかりの現在への魂の救済」なのです。
だから、ひみつ道具は日常に侵食することが無いのです。
だから、ドラえもんが帰ってもきっとのび太の未来はきっと大丈夫なんだ。
さあ!STAND BY ME ドラえもんを見よう!