寄生獣 セイの格率 18話はちょっと足りない。@ロケット
数日前はアニメ寄生獣を見て、つい感情に任せて
批評的な文章を書いてしまって、我ながら大人気ないなあ・・・と思ったんですが。
まあ、数日経って、少しは冷静に物事を考えられるようになったと思うので、
もう一度、18話を自分なりに振り返ってみたいと思います。
・・・・・うん、やはり足りていないな!確認終了。
えー、では、何処から書いていくべきか・・・
まず、一番に書くべきことは、この文章が僕の思い込みによって書かれているという事だ。
「寄生獣語り」ではなく「寄生獣を見た自分語り」である事を理解しておいて欲しい。
とゆうエクスキューズを挟んで、まず書くべき事は・・・・・
やはり、目・周辺についてもう一度整理しようと思う。
特に目頭と目じりである。
漫画版では発砲シーンへ向けて執拗に田村の目頭と目じりを強調して描き込まれている。
かつ、「目の演技(目を細めたり、見開いたり)」をほぼ田村にさせていない。
これはもちろん田村→新一母への変身をより際立たせるための仕掛である。
つまり、いつ、いかなる時も表情を変えない田村を極限まで演出しているからこそ、
発砲後の田村の顔の変化が「表情変化」ではなく、「変形」である事を読み手は直感で理解する事が出来るのだ。
その証拠というわけではないが、新一母→田村へ戻った時の田村の目に注目して欲しい。
直前までの田村の目の描かれ方の執拗さが消え、ある種、さっぱりとした目頭と目じりの描き方に変わっているのである。
(これは田村の心情として、子供を渡し終えた安堵の現われでもある)
実は漫画版では、田村の目力と物語の緊張感はシンクロしているのである。
アニメ版ではこの田村の目力と物語とのシンクロがなされていないのが残念な箇所である。目が適時、演技をしちゃっているんだよね。
といった事を前回では書いたわけです。
とはいえ、今回の18話はほとんど原作と同じ様に製作されています。
これは完全コピーと言っても良いほどに一言一句同じセリフ、同じカメラワークである。
コレで原作厨が文句を言うのはお門違いなのかもしれない・・・・と思うかも知れないが、この完コピ演出こそ多くの人が感じたある種の「コレじゃ無い感」の正体なのである。
ちょっと詳しく解説していきます。
・そもそも「かあさん」じゃ無い問題
漫画版での話。
田村→新一母と言っていますが、そもそも、田村の変身した母は新一の母ではないのです。
田村の変身した物は「若き日の新一の母」なのです。
当然です。田村は新一宅のアルバム写真で子供の頃の新一と母を見ただけなのですから。
”今”の新一母をそもそも知らないのです。
数ページ後の新一の回想での母を見てみてください。「変身田村」よりも、若干目じりが下がっています。
では、なぜ僕たちはアレをかあさんだと分ったのか?
「かあさん」で無い者をなぜ「かあさん」だと思い込んだのか?
マンガを見れば、それは一目両全です。
漫画を模写してみました。1~5の番号は見る順番です。
3つのコマを5回見ているのです。↓
1.田村の変化に気がつく
2.変化に何か意図がある事に気がつく
3.新一の「かあさん」の一言でその意味を理解する
4.再び最初のコマへ戻り確認する。
5.アップのコマを見る事で、より強い確信へと意識の強化がされる。
を1コマ1コマを別の場面として認識しながらも、この見開きを一枚絵として同時に認識しているのです。
ゆえに、田村→新一母への変化に一切の淀み無く対応し、理解ができるのです。
(さらに付け加えると、田村が変身したのが新一の母である事の「絵」的な担保として、新一との目の形の類似性があります。
変身田村の目=新一の目=新一母の目
と、新一を挟む事で、間接的に田村が新一母に変形している事を担保しています。
逆に、それ以外での絵的な担保はこのシーンには存在しません。
なんとニクイ演出でしょうか。 )
しかし・・・・アニメではこの演出は不可能です。
何故ならマンガでは可能な時間の巻き戻し構造が、アニメでは使用できないからです・・・・
そして、その漫画的構造を分解&再構築せずにアニメーション化をしてしまうと、
知覚や理解、認識に一々つまづいてしまうわけです。(つまり18話です)
漫画が新一の思考トレース的に読み進められるのに対して、アニメでは、あくまで、二人を見守る第三者視点でしかこの場面を描けていないのです。
この場面、マンガの完コピではなく、田村の変身した顔に、新一の母の顔をフラッシュバックを挟み込む等の独自演出をしていたならば、また違った印象になったでしょう。
そうでないにしても、アニメならではの工夫が必要な場面だっただろうと思いますね。
ちょっと、今更な話にはなりますが、今回のアニメ化にあたって、
ネット上では「キャラデザ」についての物議がありました。
つまり、今風の絵柄への置き換えです。
僕自身はこの、「今風の絵柄への置き換え」とゆう行為自体にはある程度肯定的です・・・・が、この寄生獣に関しては否定的な思いを持っていました。
何故なら、漫画版寄生獣はそういった漫画ならではの演出や、記号性を最大限利用した構造が大変多いわけです。(目の演出もその一つです)
1枚絵の連続で構成されるアニメとの食い合わせの悪さを考えると、キャラデザを同じにして、視聴者の「脳内補完力」を最大に引き出させた方が良いのではないか?
つまり、「アニメを見ながら、脳内ではそれに該当するページが浮かんでいる状態」に視聴者をしておいた方がセーフティであると思っていたわけです。
同じ物語を別の役者が演じる行為は下手をすると「学芸会」的になってしまう危険性が大変大きい。
「魂は細部に宿る」とはよく言ったものです。
さてさて、長々と書いてしまいましたが、あと少しだけ言いたい事があります。
最後に田村がちょっと人間っぽい演技に寄ってしまった事です。
寄生獣とゆう漫画は決して「寄生獣」と「人間」とが理解しあう物語では無い。と言いたい。
最後まで「理解し合えない者同士の物語」である事は漫画を全編読んだ方なら分ると思います。
出来れば、田村の語る言葉は人間っぽかったとしても、語り口はやはり寄生獣的であるべきだったと思います。(今後の展開を考えれば、今までよりも寄生獣的な語り口にすべきだったと思う。)
まるで、田村が人間の心を理解したかの様な演出はこの「寄生獣」の物語を通して語られるテーマとは相反しているとしか思えない。
これは目先の感動の量を水増しする事は出来たとしても、全体としての物語性を貶める危険性が多分にあると思います。
だって、この後に寄生獣と戦う意味を失いかねないじゃないですか?
まあ、それを今起こっている戦争のメタファーとして、虚無的に描きたいのなら、それも良いかも知れませんが・・・・・それは、まあ、別の作品でやって下さい。と言いたい。
今後どうするんでしょうね?
ココまで人間との差を無くしてしまって大丈夫なんでしょうか?
今後の展開を考えると、ただの弱いものイジメ感がとても強くなると思うんですが。
漫画でもそこら辺ギリギリのラインを進んだわけですが、今回の田村の演出を見ると、本来「寄生獣」の伝えたかった物語が違った方向に捉えられてしまう危険性があるなと心配になるんですが?
そおゆうのがお好きなら、漫画版デビルマンを読むことをオススメしますけどね。僕は。
あと、本当に最後に一言、
あの、エンディングのラストがちょっと変わる演出に気を配るよりももっと他にやるべき事があるだろう!と思ってしまって、あのエンディングの演出はあまり好きになれませんでした。
ロスタイムの一言
僕は、基本的には田村の立ち位置は寄生獣の登場人物の中で、もっとも
人間側から遠い存在だと思っています。
田村ほどの親寄生獣派は居ないと思っています。
田村の最期がもし自己犠牲であったのなら、それはやはり寄生獣に対しての犠牲であったと思っています。
でも、アニメ版寄生獣がとても良作である事は間違いが無いですよ。
と最後にヨイショをしておく事を忘れない僕なのであった。やれやれ。